幸せは手作り

この世の地獄みたいな寮に住んでいるので、相部屋の人の民度が低くて困ることがたくさんある。ろくな教育を受けてこなかったのでしょう。親がわるいんでしょうね。共同部分のベランダに物干し竿があるんだけど、相部屋の人は毎回毎回、乾いている洗濯物を干しっぱなしにする。私が部屋干しすればいい話だけど、なんでこっちが我慢せなアカンねんって思い、優しくブチギレないように「乾いたらしまってほしんすよ~」ヘラヘラってアピールしたことがあるけど、また干しっぱなしになってきた。言葉だけでは通じない人種ってのは居る。流石にブチギレたので、アウトレイジばりの圧力で文句を言ってやろうかなって計画してるとこです。やっちまうぞ。

休日は本当に動けない。起き上がることすらむずいなぁ~って感じで、部屋の扉を開くことなんてもちろん、youtubeを開くことも本を開くこともできない。唯一布団から身体を動かさずできることはスマホを手に取ることなので、好きな曲きいているか、好きな曲きくのも体力がひつようなときは、ラジオ聴くくらいしかできない。ラジコのタイムシフト機能は神。職場の幸せそうな、休日は息子の野球の応援にいくのが生きがいですって班長さんなんかは、週末に「土日しっかり”遊んで”、また月曜元気に出社してください」なんてコメントをいつもしている。元気か!って心の中でツッコミ入れてるけどそれが普通の感覚なのね。週末はお布団のうえから動けない自分のほうが、おかしいし、幸せじゃないほうを選んでるよなコイツ(自分)って思う。幸せとかそういうのって、自分である程度用意してあげないけないもので、でもそれってなんか計画的な感じがして、ずる賢い感じもする。けどもう大人なのでそうやって自分の情緒をコントロールできてないほうがダメなのかもしれない。いきなり眩しすぎる幸せはキツイのでアウトレイジ最終章を観にいって相部屋の人をシメるイメトレでもしようかなと。

MUTEKI

夜勤のクソだなって思う点は配達物をなかなか受け取れないことで郵便局とかクロネコさんは早急に午前中の配達時間の区分けを「午前中」だけじゃなくもっと細かくしてほしい。こんだけ配慮が行き届いた日本でどうしてここだけ見落とされてるんですか。怠慢でしょ。日本郵便の怠慢のおかげでフラゲ日には受け取れなかったけれど、大森靖子さんの新しいアルバムMUTEKIをやっと手に入れた。よかった、これで騙し騙しだけどまた今日を生きることができる。曲単位で必要としている人にちゃんと届いています。
ファンとの距離感とか関係性とか想いを歌った曲っていう紹介をされることが多い流星ヘブンを歌詞カードをみながら聴いて、こっちの都合で好きな一瞬を切り取ったりしてるうちに、私の中ではもう完全に救世主というか神的存在になってる靖子さんとの関わり方について改めて考えさせられた。こっちが曲を聴いたり靖子さんの哲学に共感したり考えたりするうえでの体裁の整え方みたいなことだ。まず、『消えてしまう前の私に一瞬でもいい追いついて』っていう歌詞とか、どろどろのときもそうだったんだけど、最後の部分の『間違ってる間違ってゆく』から先の絶対にしないで、好きに壊して 僕の遺作を(昔の曲?)を 世界を壊して とかの歌詞を聴いていて引退とか若い子たちのプロデュースに回ろうとしてるんじゃないかと正直超超焦ってた。けど28日のゲスト出演をしたミューコミプラスを聴いて間違いだったと気づいた。その中であった例え話が分かりやすくて、若いアイドルの子がたとえば14歳で出した写真集が好評価で、その後成長して20歳とかになっても14歳のとき写真集はよかったね~って語られちゃって過去の産物が、今の変わり続けている自分にまで責任がのしかかってきちゃうみたいな話(うろ覚え)だ。『都合よく好きな一瞬を永遠にされるのが怖い』。この歌詞がすべてを言い表してる気がしてて、『消えてしまう前の私』っていうのは引退とかそんなことではなくて、一瞬一瞬今を生きてて変わり続けている靖子さん自身のことなのではないかなと。そういった恐怖を抱えながら同じ曲の中で不幸に守られた私らを引きずり出そうとしてくれてる靖子さんはやっぱり優しい。優しすぎるな。そこまでしてくれる、マジックミラーの中で私達の孤独の為に有名が光るといってくれた靖子さんが、今そしてこれから先どんなふうに変わっていこうとも、昔も今もこれからも一生好きだし、追いつこうとして頑張るっていう目的があるから生きていけるみたいなとこあるし。なんか的外れなこと言ってるかもしれないけどただ一つ、これから先も一生歌い続けてほしいなって思います。

ネギ玉牛丼

幸せってなんだろう。自分にとっての、って言葉を入れて少し引き寄せて考えても答えがでなさそうだ。答えがあるものでもなさそうだけど旨い醤油がある、ってだけでは幸せになれなくて、でも自分の気持ちを偽ったりとか周りに合わせることに慣れすぎちゃっているので絶対これ!って明確に言える基準が分からない。だから妄想の話になっちゃうけど、例えば東京じゃなくても戸建を持ってそれかマンション買って週末は家族でミニバンに乗ってお出かけしてるみたいな月9とかのドラマで幸せな家族を表現したいんだろなってシーンが幸せの代名詞として思い浮かぶ。普通でいいんだ。普通になりたいんだよな。職場にいる話がちゃんとできる先輩に子供ができたそうだ。その先輩もお金を稼ぐために期間従業員として入ってきていてなにかやりたいことのためにお金を貯めているそうだ。自分のやりたいこと、ましてや、やりたいことをするためのお金を稼ぐ時間というクソつまんない時期に若いのに結婚し子供をつくり社会人としての人生ゲームの駒を一個一個着実に進めている感じが素直にすげーなって感じた。人として上でしょ。その先輩はこれから妻と子供の為に「も」頑張るんだろうけど私は自分の為だけにお仕事して夕方値下げされたお惣菜を買いバス代をケチってチャリで移動したりするのだ。自分の為だけに。むなしい。

今日は最悪なことが続いて帰りも傘ないのに雨だったから死にてぇなって思ったのでほんとは分かってて死ねないし回復させなきゃってすき屋にいってネギ玉牛丼大盛りトン汁サラダセットっていう超豪華夕食キメてイオンでお豆腐とかお買いものしてたら気が紛れちゃって帰りの魔の踏切(単線)引っかかっちゃったけどまぁ特急じゃなかったから飛び込むのはまた今度にしてやるよって家に帰って来れました。あんなに死にたかったのに明日の休出のためめに長友のヨガをやって身体整えてから寝ますよ、もう何考えてるのかわかりません。

最悪でも幸せでいようね

最悪でもしあわせでいようね、って言ってくれた。それは確かに、私を救ってくれた。
9月19日は大森靖子さんの30歳の誕生日であり、生誕祭OVER 30 OVER THE PARTYというライブに行ってきた。
今までの人生で大きく分けると2度、大森靖子さんの曲に救われている。1度目は2015年の夏だった。私は浪人生という体裁をとりつつただ目先のお金を稼ぐだけの生活をしていた。周りの友達はみんな大学に行き勉強をしてサークルにはいって友達を作り恋愛をし人間関係をたのしみ人生でたぶん一番キラキラしてる生活を送っているのがツイッターやLINEで嫌でも目に入ってしまい、私の心の中はもうわけわからなくなっていた。そんなときに新曲として出た曲がマジックミラーだった。ちょうど今から3年まえの夏、2015からすると1年前にきゅるきゅるでメジャーデビューをしてだんだんと有名になっていった大森靖子さんが「私の有名は 君の孤独のためだけに光るよ」と歌っている。これに何度救われたことか!あの大森靖子さんがここまで言ってくれるんだから、曲を通してここまで寄り添ってくれているんだから、せっかくならもう少し生きてぼろぼろのでもなんとかLIFE掻き集めて形にしよう、最悪って感情とか不幸とかに胡坐かいてないで自分から幸せの方向いて生きてみよう鏡をつくってみようと思えた。自分に向き合って状況を整理して進むための力をくれた。ほかにもこれ私のこと歌ってる気持ちEってフレーズが沢山あってそのぶんだけ勝手に重ね合わせていた。汚されるための青春じゃねーぞって理不尽なことに対して中指立てまくっていた。
そして2度目は生誕祭OVER 30 OVER THE PARTYでのことだ。私の場合、気持ちが沈むとこまで沈んでいると、好きなものも好きと言い続ける体力がなくなってしまうので、ライブに行くかどうか、というかいけるかどうか微妙なところであった。自分が許せる身分になるまでライブにいっちゃダメな気もしていた。そんな具合にまた、自己評価的なものが最低ランクまで落ちちゃっていた。セトリを完全に覚えてないのであれだけど オリオン座 の合唱で完全に号泣してしまったのだ。なんだろう、これに関してはまだ言語化できない。最後の「最悪でも幸せでいようね」がどうしてもキテしまってそれからの曲はずっと泣いていた。起こった出来事のありのままをとらえてそれに対して芽生えた感情をありのままに表現する、というか自意識の外に外れるというか、なんにも制限なく心のうちにあるものをフィルターを介さず出す、ということが久しぶりにできたのかもしれない。とにかく久しぶりに心がすっきりとしている。
おもったことを言葉にするのって難しい。でもこれだけは言える、大森靖子さんお誕生日おめでとうございます。本当に産まれてきてくれて、歌を歌ってくれてありがとうございます。

共感

女城主直虎をみてて傑山という僧役で市原隼人が出てくるたびに、三四郎のANN0のコーナー、なぞなぞいっちーを思い出して真面目なシーンでも笑っちゃう日曜。吐き出すことも体力使うし主張したいことなんて全然ないのでとりあえず一週間毎日ブログ書くなんて思っていたけどなかなか辛いものがあった。時間的に余裕が無さすぎる早番週に始めたのが悪かったな。生産性もお役立ちライフハックもないブログなんてなんの役にも立たないのは百も承知なんだけど。でもあれでしょ、無駄があってこその人生なんでしょ。しらんけど。
ここ2年、いろんなアカウントを消してきた。ツイッターなんて輪廻転生を繰り返すのはもちろんのことLINEの垢消しだってした。半年くらい復活させなかったけど全然生活に困らないのは我ながらなかなか世に背きすぎじゃねーのって思った。あとラインのアカウントは消すとツムツムのデータも消えちゃうので気を付けた方がいいっすよ。アカ消しによる仮想的な自殺をするというよりは、アカウントに関して言えば、死にたいではなく生きたくないって方の感情で、周りのキラキラした同年代の活躍が視界の隅にチラつくのがきつかったんですね。現役とか予備校時代の友達が大学の長期連休に入る前のタイミングで今何してるのとか連絡を取ってくる(取ってくれる)のとか無理だった。大学進学が当たり前の世界では、2交代制勤務の自動車工場での仕事はたぶんカイジの地下労働みたいな世界のお話で新鮮味があるのでしょう。で心配してくれるのはいいんだけど、でもお前に何が分かるっておもっちゃう。いくら労ったりなんでも話せいうてくれても、キラキラしてる世界、今が一番楽しいであろう大学生に何を話したところで、現実どうもならんじゃん、って思う。大丈夫っていうときは大丈夫に責任を持てしっておもうし辞めちゃえというならその先の人生に責任持てよって思う。人間として終わってるほんとに終わってる思考回路なのは分かる。でも友達、恋人、血のつながった親だって完全に感覚を共有することなんてできないんだから、同い年でも大学生と自分じゃ天と地ほどの距離がありすぎてなにも伝わってない。心配してるよ、って言いつつそれはただの好奇心では?とすら感じる。メンタルのクリニックの先生を信用しないし寝れるお薬出すだけで金取る人って思ってるのは、医師免許があってたぶんたくさん金を持っていてたぶん外車を乗り回している先生様になにが分かるって思ってるからだ。この理屈だと現実や立場や状況を共有してる人と人でしか分かり合えないじゃん!ってなるからたぶん間違いなのは流石に分かってるけど。
まぁでも仕事中わけのわからん気持ちになってあ~さすがに死思って泣いちゃったとしても(保護メガネでバレない!)休憩中におじいちゃん作業者が一口チョコレートくれて明日の天気の話ふっかけてくるだけでまぁもうワンタイムくらいがんばってみっかくらいまでなったりするし今日は頑張っていろいろ返信してみよう

諦念

普通に生きてて、罪を犯しているわけでもなく誰に批判されているわけでもないのに、確かにここにはモヤッっとした感情があり続けるのは被害者意識というかたぶんただの被害妄想な部分もあるかも。悲劇のヒロイン演じてるほうが許してもらえる感あるし。実際世の中は許す許さないの問題じゃないし、だいたい、これならば許される!、うーんこれはちょっとー、、みたいなラインは自分で勝手に作っちゃってるわけで。今日もちゃんと出勤したんだから、とかなんならちゃんと時間通りに起きれたとか、そんな些細なことで自分を許してあげていくくらいの方が健全そう。
自分を許すことも周りを許すことも現実を許すことも全部イコール諦めることなのかもしれない。許すって感覚と諦めるって感覚ってすごく似てる気がする。固まった感情をフリーにしてあげるって感じ。大学進学諦めるくらいなら死ぬって思ってここ何年かずっとやってきたんすけど、大学進学しないままでこの先生きてく自分を許せるかって言われたら許せない。たぶんもうこの価値観は死ぬまで一生抜けないものなんだろうな。たとえば結婚して子供ができたとしたらその友達に○○のお父さんって何の仕事してるのー?って質問されたときに自動車工場で働いてるよって答えなきゃいけない子供の気持ちになると、ここで妥協しちゃ絶対ダメだなって思う。話がそれたけど大学進学せずに生きてく将来像がぜんぜんみえないのに、現実問題お金とかいろんな点で厳しそうなのが辛い。いつか本当にくるかわからない日々の為の毎日が楽しく健全なものであるはずがないじゃない。今を生きてるというよりかは今に使い捨てられてるって感じだ。大学いけないくらいなら死ぬつもりでやってきてるんだから、諦めるって選択肢に手を出すとしたら死ぬしかない。

おわり

日常会話のなかでその人の価値観が垣間見える瞬間があって、お酒でも飲んで会話するぞ!って意気込んでない分その感覚は、本当にその人のなかで常識というか、ご飯食べるときはいただきますって言うものみたいな考えるまでもない普通のことってなところまで落とし込まれてる感覚なのだろう。前にラジオで某作家さんがどういう文脈か忘れたけど「絶対この人のほうが偏差値低いのに~」って発言した瞬間があって、やっぱり心の中では人間をそういう区別の仕方するよね、作家さんですらそうなんだから別に罪悪感もつことではないかっておもった。
 飲酒運転をして事故を起こし会社を懲戒免職になったひとがいる。まぁ実際大きな会社、というか工場なのでどこの班の誰かなんて知りもしないので、なったひとがいるそうだ、が正しい。あんましこういうこと書くのはよろしくなさそうだけど、勤めてる先の会社名とか書いてないし大丈夫か。職場の休憩所でこの話になったのだが、ある正社員さんが「飲酒運転で事故起こして会社までクビになってこの人の人生終わっちゃったねぇ」と言っていたのだ。この発言にめっちゃ違和感を感じて「まぁ~そうっすね~~~」って言いながらとりあえず休憩所を出ることしかできなかった。え!あなたは飲酒運転事故起こしクビ野郎と比べて自分の人生は終わってなんかない、むしろ始まってるとでも思ってるんすか!って思った。その人の生い立ちや学歴や家族構成は分からないけどこの人の人生からしたら、田舎の自動車工場の正社員でブルーカラーの製造業で働いてることは、人生始まっている、ことなわけだ。価値観なんて人それぞれだし(すくなくともその人とは)分かり合おうと思わないけど、自己採点高すぎ。人生は模試じゃないから答案が返却されて自己採と照らし合わせることができないので、その人は一生その価値観の中で生きるのでしょう。答えがあるものでもないけど、身の丈に合った態度でいろやって思う(ブーメラン)