持たざる者

 

季節の変わり目は、毎回馬鹿の一つ覚えみたいに風邪をひく。バファリンをブチ込むために空腹ではダメなので食べる気力もないカップラーメンでお腹を満たす。明日までに治ってくれ。

ブログを始めたきっかけの一つに、今住んでる寮にネット環境を整えることができたからってとこもある。ソフトバンクAirというものを契約したからだ。家族全員ソフバンでスマホを持ってるおかげでほぼ追加料金なしで契約ができるのを知りショップに行ったのだが(だいぶ前の話)、「家族割」という単語に違和感を覚えつい、もう家族なんかじゃないんすけどね~~ってボケたらお姉さんの笑顔を曇らせることしかできなかったので後悔している。

いまどきそんな(ザックリと)家庭の事情とかって珍しい話なんかじゃないことはよく理解している。むしろ願書の行きを2重線で消して御中にしたり、チャイルドシートは運転席の後ろが基本ってことが分かっていたり、なんかパッとは思い出せないけどある程度ラインの常識はクリアしてる家庭に育ったんだなと感じる。周りが大学進学が普通って層に居たときに比べ、田舎の自動車工場に勤めるようになって特にそのカルチャーショックのようなものを感じる。カルチャーショックというかむしろ、こんな奴隷みたいな仕事が日本にまだあったのか!とさえおもったのだ。誤解してほしくない。これは自分の優位性を主張して比較してマウントとろうとしてるわけではない。むしろ今までの自分世間見えてなさすぎだろって感じなのだ。それすらも間違いなのかもしれなくて、たぶん見て見ぬフリをし続けてたんだろうな。

小説家の西加奈子さんがよく話す話で、子供のころ駐在員の娘として外国に行った際、自分はその国ではお金持ちでも、現地の子たちは貧しい暮らしをしてるのでそれに対して羞恥心とか罪悪感があった、そう思うことすら傲慢なことだけど...みたいな話がある。

たぶん「普通」の暮らしをしてたときは、たとえば団地に住んでるから家に遊びに行かせてもらなかった友達とか、部活で使う道具が新品じゃなく先輩のおさがりだった友達に対してこんな気持ちをもってたんだろうな。で、そういう感情を持つことすら傲慢なので目を背けてた。いまこうして持たざる側に落ちて思うことはとにかく辛い。こんなことなら生まれたときから持たざる側でありたかった。それなら 持ってる 側の喜びなんて分からなかったのだから辛さも少しはマシだったかもしれない。