諦念

普通に生きてて、罪を犯しているわけでもなく誰に批判されているわけでもないのに、確かにここにはモヤッっとした感情があり続けるのは被害者意識というかたぶんただの被害妄想な部分もあるかも。悲劇のヒロイン演じてるほうが許してもらえる感あるし。実際世の中は許す許さないの問題じゃないし、だいたい、これならば許される!、うーんこれはちょっとー、、みたいなラインは自分で勝手に作っちゃってるわけで。今日もちゃんと出勤したんだから、とかなんならちゃんと時間通りに起きれたとか、そんな些細なことで自分を許してあげていくくらいの方が健全そう。
自分を許すことも周りを許すことも現実を許すことも全部イコール諦めることなのかもしれない。許すって感覚と諦めるって感覚ってすごく似てる気がする。固まった感情をフリーにしてあげるって感じ。大学進学諦めるくらいなら死ぬって思ってここ何年かずっとやってきたんすけど、大学進学しないままでこの先生きてく自分を許せるかって言われたら許せない。たぶんもうこの価値観は死ぬまで一生抜けないものなんだろうな。たとえば結婚して子供ができたとしたらその友達に○○のお父さんって何の仕事してるのー?って質問されたときに自動車工場で働いてるよって答えなきゃいけない子供の気持ちになると、ここで妥協しちゃ絶対ダメだなって思う。話がそれたけど大学進学せずに生きてく将来像がぜんぜんみえないのに、現実問題お金とかいろんな点で厳しそうなのが辛い。いつか本当にくるかわからない日々の為の毎日が楽しく健全なものであるはずがないじゃない。今を生きてるというよりかは今に使い捨てられてるって感じだ。大学いけないくらいなら死ぬつもりでやってきてるんだから、諦めるって選択肢に手を出すとしたら死ぬしかない。